川崎・横浜大空襲の記録写真集

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  1. 戦前・戦中の暮らし編
  2. B29による空襲編 その1 横浜・川崎
  3. B29による空襲編 その2 東京及び他の地域
  4. 焼け跡の占領編
 
戦前・戦中の暮らし編
昭和12年4月、朝日新聞社機「神風号」は、東京・ロンドン間の国産機による連絡飛行世界新記録を達成した。「神風号」の飛行士歓迎にわく伊勢崎町の賑わい。
女学生による軍事教練
昭和8年・松屋屋上での防空演習(横浜開港資料館提供)
戦前の伊勢佐木町・オデオン座(横浜開港資料館提供)
警防団上衣
警防団上衣
防毒マスクと収納袋
防空頭巾にモンペ
火はたき
防空演習の風景
吉田橋際に作られたモデル壕舎。水平方向の射撃には耐えられるが、上空からの空爆には無力な半地下式製。コンクリート製の防空壕は材料不足から、十分に作られなかった。
大量に空から撒かれた伝単。大統領トルーマンの写真入りのもの。
伝単(2千機のB29の攻撃に匹敵する原子爆弾が発明されたことを予告、都市から避難するよう勧告したもの)
伝単


 

B29による空襲編 その1 横浜・川崎
超空の要塞B29爆撃機
爆弾を積みこむB29
B29による爆弾投下
B29による爆弾投下
グラマン艦載戦闘機(硫黄島が陥落、米空母が日本近海に出現するようになったため、B29を護衛する艦載戦闘機が本土上空を飛行するようになった。)
グラマン戦闘機による爆投
横浜の市街地に降り注ぐ焼夷弾
一斉に煙を吹き始めた横浜
焼夷弾の筒
逃げ惑う人々
路面電車を押す
裸足で避難する兄弟
焼け出された人々
空襲の犠牲者
空襲の犠牲者
空襲の犠牲者
空襲の犠牲者(黄金町ガード下付近。駅構内に、たくさんの乗客が降りて避難していたところに焼夷弾が落下し、多くの犠牲を出した。襲いかかる熱風のなか、階段を這って逃げようとする人々が折り重なるように焼死していたという。)
空襲の犠牲者(黄金町ガード下付近。付近の犠牲者も黄金町ガード付近に集められ、夏の暑さによる腐乱防止のため、身元不明のまま軍用トラックに載せられていずこかに運ばれて行った。炭化しているため身元の判別もつかず、肉親が荼毘に付された場所もわからない遺族が多い。)
大空襲直後の伊勢佐木町付近
野毛の焼け跡
罹災後の元町商店街
山手から見た罹災地 汐汲坂から県庁方面を見る
山手から見た罹災地 汐汲坂から中華街方面
山手から見た罹災地 フェリス女学院から石川町を見る
山手から見た罹災地 フェリス女学院から西の橋を見る
大空襲直後の桜木町
鶴見区安善町
川崎空襲・六郷橋から第一京浜国道を見る
川崎空襲・渡田新町から市役所、宮前小学校を見る
川崎空襲・貝塚通りから川崎警察署を見る
川崎空襲・大日本化学(現:味の素)を見る 石渡久吉氏撮影
川崎空襲・六郷橋から明治産業(現・明治製菓、今は川崎テクノピアのビル街)を見る
日本兵による張り紙。ビラには「直ぐ立ち上がり、この仇を撃とう」と書いてある。


 

B29による空襲編 その2 東京及び他の地域
東京空襲の犠牲者
東京空襲の犠牲者
東京空襲の犠牲者
他の地域への空襲
他の地域への空襲
広島への原爆投下(高熱の放射を人が遮ったために焼き付いてできた影)
広島への原爆投下(高熱の放射を人が遮ったために焼き付いてできた影)
広島・原爆ドーム


 

焼け跡の占領編
接収中の関内(左上に県庁の建物が見える)
接収された横浜駅(現:東口)
伊勢佐木町に舞い降りた米軍ヘリコプター(左側手前の建物は横浜銀行。その奥が松屋デパート)
司令部として接収された伊勢佐木町のオデオン座
吉田橋を行く米軍パレード(現・関内駅から伊勢佐木町商店街への入り口付近)

 


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