Tall Tree Press of Palo Alto, 1995
ISBN 0-9646253-0-X

"Backwards into Battle"
後尾機銃手Andy Dotyの記録

  以下に紹介する記事は、Andy Doty氏のご好意により、左の著書の一部を抜粋し翻訳・掲載させて頂くものです。

注意事項:

  • 各項タイトルと白地の補足文章は、ページ管理者による。
  • B29に関する写真は、著書掲載のボーイング社資料による。



  1. ■真珠湾攻撃
  2. ■エレノア嬢との別れ
  3. ■テキサス・ハーリントン空軍基地での訓練
  4. ■昭和20年3月30日名古屋空襲
  5. ■昭和20年4月13日東京空襲
  6. ■日本の上空にて
  7. ■機内事故と名誉勲章
  8. ■出撃準備
  9. ■敵愾心
  10. ■近づく本土上陸作戦
  11. ■戦争の終局へ

 
Andy Dotyは1925年10月12日、ニューヨーク州Glens Falls市郊外のHudson Fallsという小さな町に、製紙工場の職人を父に持って生まれた。 双子の兄弟Chuck以外は兄1人、姉2人の7人家族である。4千万人が失業している大不況期に幼年時代を過ごし、家は豊かとは言えなかったが、ロール捲きたて機を扱う父の週18ドルの収入と、裁縫の内職を家計の足しする母の労働により、一家は互いに支えあって暮らしていた。

その頃のアメリカは、現在のように個人主義が中心の世の中ではなく、政府・組織・年長者などの権威が大きな力を持ち、若人は質実で純朴、大人から言われたことに従順であった。若者に覚醒剤がはやり、学校にナイフや拳銃を持ってくる子供がいる、今のアメリカ社会の姿からは想像もつかない。 氏が自ら呼ぶ、"アメリカで最後の純真無垢な世代"の青年たちは、その頃、家のドアにまで忍び寄る戦争の足音を耳にしていた。

■真珠湾攻撃

  1941年12月のある日曜日の昼下がり、チャックと私が家に帰ると、両親はラジオに聞き入っていた。アナウンサが「被害は甚大です」と言っている。
  「何が起きたの?」
  私たちが訊くと、父は静かに言った。
  「ジャップが突然、真珠湾を爆撃したのだよ。今朝、忍び込んできたのだ。奴らと戦うことになる」
  東部に住みヨーロッパ情勢を眺めているうち、私たちは太平洋の出来事を、さほど詳しく追うことがなくなっていた。
  合衆国は日本の東南アジアへの拡張に反対し、石油、鋼材、金属廃材の禁輸措置をとっていた。日本は自分が強大で、アメリカが弱体なうちに反撃に出たのだ。真珠湾攻撃が私たちの脳裏により卑劣に映ったのは、日本側の外交交渉団がワシントンにいて平和交渉をしているその最中に、空母部隊がハワイに向けて太平洋を渡っていたからである。

   
真珠湾攻撃によって米国の参戦意志が明らかになると、兵役についていない青年は街中で老人に呼びとめられ、「何をしているのか」とどやされたという。双子の兄弟は、兵役年齢である18歳を迎える1943年10月までに戦争は終わると期待していたが、あてが外れた。そしてDoty氏に"赤紙"が届く。それは恋人エレノア嬢との別れを意味した。

 
■エレノア嬢との別れ

  私の体に寒気が走った。
アンドリュー・M・ドゥティ二等兵

 1.本書面は1944年1月31日をもって、貴下に実戦任務配備を通告するものである。
 2.命令は数日中に発送される。

  このすぐあとに、召集令状が届いた。「慶祝」で始まり、次のように書かれていた。
「貴下は友人及び隣人よりなる委員会によって、今戦争期間中、アメリカ合衆国軍の兵役につくよう選ばれた。1944年1月31日、ニュージャージー州ディックス基地の召集所に出頭せよ」
  地元の老人たちからなる徴兵委員会を代表して、そこの会長を務める老人によって署名がされている。
  ベイク(Eleanor Baker嬢:右写真の愛称)と私は、彼女のお父さんが商売をしているドラッグストアへ行き、奥の部屋で話し合った。私は、2枚の令状を彼女に見せた。
  「ずいぶん言葉が短いのね」
  「それどころじゃない。出頭“願いたい”とも書いてないよ」
  「まだ何週間か、あるわ。すぐでなくて嬉しい」
  彼女は他に、ほとんど話しをしなかった。私たちはまだ愛を語るほど、うちとけた間柄ではなかったのだ。お互い、いなくなったら、どれぐらい寂しいか、それすら認めてはいなかった。兵役の時は、いとも単純に訪れた。
  メカニック通りをゆっくり戻りながら、私が言う。
  「多分、2年ぐらいかかると思う」
  彼女が訊き返した。
  「え。そんなに長いの?」

   
彼は機銃手となるべく訓練を受けた。使用する銃は50口径ブロウニングM2機関銃。目隠しをしていても分解、組み立てができるまで機銃に親しむ。訓練を受けながら、敵の枢軸国の青年たちも自分と同じように集められ、訓練を受け、いずれ戦場で出会うことになるのだろうと思ったという。

 
■テキサス・ハーリントン空軍基地での訓練

 私は軍隊がどのようにして私に人殺しを教えるのか、不思議な思いでいた。私は殴り合いが嫌いだ。狩猟などしたこともない。人にはいつも親切に振舞うよう心がけていた。そういう私の性分を、どうやって変えるのだろうか。答えは簡単だ。訓練と装備とを与え、いくらか思想を叩き込んで、ある場面にもっていく。撃ち返すか、それをせずに悔やむか。もちろん、戦友を死なせるわけにはいかないし、臆病者と見られてもならない。

   
グァム島に配属されたのは1945年3月14日、東京大空襲から4日後である。既に本土空襲は最盛期を迎えつつあった。第20軍第314航空団第19爆撃大隊に配属され、3月30日の名古屋爆撃から6月7日の大阪空襲まで、尾翼にMの文字をつけたB29の後尾機銃手として、たびたび日本本土に飛来する。初陣は3月30日の名古屋空襲であった。

 
後列左から
機長Talmadge Heath
操縦士Charles Mienke
副操縦士George Walker
航路士Paul Klenk
爆撃手Donald Hutchison

前列左から
後尾射撃手Andy Doty(著者)
技術士Abe Veroba
中央管制射撃手 Donald Cox
無線通信手 Jim Dudley
右中央射撃手 Rea Schuessler
左中央射撃手 Herbert Kestenbaum

レーダ観測員 (写真にいない)


 
■昭和20年3月30日名古屋空襲

  硫黄島を過ぎて3時間を経過した頃、ヒース機長が爆撃高度2万5千フィートにまで機体を上昇させるとアナウンスした。私は後尾に戻り銃座についた。我々の前方では、目印として前輪を出した先導機が、日本海岸沖の小さな火山島の上を旋回していた。
  後方から到着するB29は、先導機が作る大きな輪を横切って、我々の部隊に追いついてくる。12機編成の我が隊は、翼を接するばかりの飛行隊形を作った。集結する全部隊は256機、名古屋に向けて一路、長大な飛行隊形を作っていった。
  私が位置する後尾銃座席の脇窓が、かすかな火光を映していた。私は首を伸ばし、両翼とエンジンの状態を見ていたが、翼の下には日本の海岸が広がっていた。暁闇のなか、敵地は暗く不気味に浮かんでいた。もう後戻りはない。日本における第二の都市の上空の、ある一点に向けて、我々は容赦なく引き寄せられていた。
  やがて目的地が近づき、部隊が爆撃飛行隊形に移ると、私は腹が締め付けられるように緊張した。火力と爆撃パターンについて、最大の効果を引き出すため、部隊は近接飛行の形を取り、なるべく互いに離れないようにしていた。我が機のすぐ後ろ、やや下側には、別の友機が控えている。彼我の飛行間隔は、僅か数ヤードぐらいだ。機首キャビンを覗き込むと、戦闘服に身を包んだ操縦士と副操縦士、爆撃手が、酸素マスクとヘルメットを付け、張り詰めたようにかがみ込んでいた。
  機銃の先が彼らに向けられていれば、味方撃ちの危険にきっと驚くだろうと思い、私は手にした機銃を終始、上方直角に向けていた。快晴の気候のなか、飛行を続ける爆撃機の機中は静かだった。やがて最初の対空砲火が上がる。私は敵機が現れないかと、あらゆる方向に目を凝らした。
  「12時水平の方向に敵機!」
  ミエンケが叫び、機体の前方で射撃の断続音がする。日本の戦闘機一機が、我が部隊と瞬間にすれ違った。すれ違いざま、敵の操縦士が、こちらに顔を向けてくる。私はできるだけすばやく銃弾を放った。私のではなく、誰かの弾が当った。彼は機体から脱出し、ゆらゆらと遥か後方に落下傘着陸していった。
  目標が近づくにつれ、対空砲火の激しさが増した。我々の初陣は、炸裂する対空砲弾の黒く醜い塊に彩られた空であった。砲弾が炸裂するたび、破砕した金属片が、あらゆる方向に飛び散っていく。
  私は少しでも敵の目標にならないよう、できるだけ身を縮めていた。友軍の編成部隊の上を飛ぶ日本機が落とす燐酸爆弾は、空に長く白い尾を引き、あちこちに黒く吹く炸裂の塊と死のコントラストをなしていた。超現実的な、その光景。対空砲弾による爆発の塊が幾つか、私の搭乗機にどんどん近づいてきて、すんでのところで止まった。右方向の射程距離外には、ツインエンジンの日本軍戦闘機一機が飛んでいた。我が隊の速度と高度を、地上の部隊に無線連絡しているものと思われた。
  全てが現実のものであり、これ以上の現実はないのに、何もかも非現実的な光景に、私は衝撃を受けた。多分、戦士は誰でも実戦の場面に置かれると、幾らか精神に異常をきたすのだろう。日本の上空5マイル、我々は、その真っ只中にいたが、私は忘我のままに自分と周囲を見渡していた。銃座室内のひんやりとした空気、我々の周りを蝟集して飛ぶ銀色に光る爆撃機、爽快な外の空気、炸裂する忌まわしき対空砲弾、そして私の乗機では、すぐ後ろに酸素マスクとヘルメット姿の男たちが身を寄せ合っている。全てが別世界の出来事のように思われた。
  まもなく、我々は爆撃飛行隊形に入った。いったん、この安定的な隊形を取ると、どの飛行機も隊列を乱して離れることができない。“熾烈にして正確”と表現された対空砲弾は我々の周囲で絶えず炸裂している。ついにクレンクが「投下完了」を告げ、重荷から逃れた我が機は上昇を開始した。周囲を見渡すと、他機から落とされた胴太の500ポンド爆弾の群れが、地上までの長い滑降を始めていた。ややあって下を眺めると、目標域で爆裂する光の輝きが、数珠つなぎになっている中国の花火のように明滅していた。
  全部隊は帰投に向けての旋回行動に移った。陸を離れると隊は散開し、各機ともグアム島に向けての長距離単独飛行に移る。ほっと安堵の思いが我が乗機内にあふれた。

 

 
■昭和20年4月13日東京空襲

 我々は午後遅く、暗号名「焦土化」作戦の途につき離陸した。地獄、壊滅、滅亡、破滅などを意味する、いかにも、といった名前である。目標は皇居の北西6マイル、機銃、砲門、爆弾他の武器製造をしている、住工混在の兵器廠のようになっている地域である。1平方マイルあたりの住民数は3万人から8万人と見積られていた。
  出動部隊345機は、それぞれ、予定される飛行距離によって5?8トンの焼夷弾を積んでいた。グアム島はサイパン島の南125マイルにあるため、我々の搭乗機に積み込まれる燃料の量は多く、弾量はそれだけ少なかった。焼夷弾は55発の小型爆弾からなる集束弾で、地上5千フィートで親爆弾が開き、ゼリー状のガソリンが詰まった子爆弾が散開する。爆撃機一機あたり、幅半マイル、長さ1マイル半の火炎地帯を作り出すことができた。
  北へ向かって飛行中のその夜、我々のヘッドフォンに、ルーズベルト大統領が静養先のジョージア州で急死したとの知らせが飛び込んできた。我々は大統領を敬愛し、その確かな指導力を信頼していたので、我々は衝撃を受けた。今後の成り行きや、じきホワイトハウスに移ることになる、知名度のない副大統領ハリー・トルーマンについて我々は噂をしあったが、すぐまた目下の任務に神経を集中させた。
  我々は深夜に沿岸沖に達した。前方を遠望すると、燃えている東京の火光が見える。我々は、約300挺の高射砲が待ちうけていると聞かされていたので恐ろしかった。その報告によれば、上空でサーチライトの照準に合わされた爆撃機は、“あの世行き”になる場合が多いという。
  「さあ、ついに来たぞ」と誰かが言った。
  「無線機から離れろ」とヒース機長が命令する。
  私は既に、なんとも説明しようもない光景を見下ろしていた。東京は火炎地獄と化していた。市街を埋め尽す建物が、ことごとく燃え盛っている。火炎が覆う範囲は11平方マイルに及び、煙は数千フィートの塔となって空に昇っていた。木材他の資材が燃える臭いは、開いた投下ベイを通じて機内に入ってくる。猛烈な上昇気流が、突然に我が機を数百フィートも押し上げ、我々は座席に貼り付けられたようになった。私は自分の手すら、ほとんど挙げられない。
  サーチライトは空を照らして駆け巡り、トレーサ弾が夜空を衝き抜けて撃ち上がっていた。私は友軍爆撃機や、日本軍戦闘機が近くにいないかと目を凝らした。後方、数千フィート上空に、数条のサーチライトに照準を合わされ、夜空に銀色に輝く別の爆撃機があった。その投下ベイから、サーチライトと火炎の反射光を明滅させる爆弾の群れが、叩きつけるように落ち始めた。
  突如、私の搭乗機もサーチライトに照らされた。すぐに別のサーチライトも照準を合わせてくる。後尾銃座のなかは、新聞さえ読めるほどの明るさだ。搭乗機は猛スピードで進むが、私は全く無防備になった気がした。ひたすら爆弾投下任務の完了を待つ。やっと全量の投下が終わると、ヒース機長はスピードを得るため急降下を始めた。
  「さっさと脱出しようぜ」
  ヒース機長は再び機体を上昇させ、滑空させながら言った。基地へと戻りながら、我々は非常な安堵の思いに誘われた。東京から100マイル以上を離れても、夜空に燃え盛る火光を、私は遠望することができた。その火光の下では、何千人とも知れない人々が死に、今も息絶えつつあった。

 
■日本の上空にて

  ある南日本の目標点に進むうち、私は平和な日本の村々を見下ろしていたことを覚えている。中西部での練習飛行の際、この空の下で暮らす農場の人々のことを思い描いたように、日本の農村で暮らす人々の息子たちが、今どこで、どのようにして、天皇の戦争に仕えているのかが気になった。

 
■機内事故と名誉勲章

  B29による爆撃作戦下で、我が航空戦史上、最も英雄的と言えるような行動があったことも記しておく。第314航空団の先導機が、日本の沿岸沖で後続部隊の集結作業をしているときのことである。無線通信手であるH.アーウィン軍曹の任務のひとつに、リン酸爆弾を投下シュートから落とす作業があった。爆弾のひとつに欠陥があって、投下シュートのなかで爆発し逆に機内に飛び込んできた。H.アーウィン軍曹は顔面に被弾し鼻を焼かれ、目が見えなくなった。それでも、このままでは機体が炎で包まれ墜落すると知った軍曹は、パイロットの窓から外に捨てようとして、燃えている爆弾を拾い抱え、煙で充満する機内を、ふらふらになりながら歩き進んだ。航路指導員の机が行く手をさえぎったが、なおも爆弾を小脇に抱えた彼は、テーブルを吊り下げているバネを外して前進し、窓から外へ捨てることに成功したのである。火だるまになった彼は、その場で床に倒れ伏した。マリアナ諸島の野戦病院で包帯に包まれているところを、彼はその勇敢な行動に対し議会名誉勲章に叙せられた。

 
■出撃準備

  兵営の全域を網羅している呼び出しシステムから逃れる術はない。アナウンスに先だって大きな呼び出し音が鳴るが、そうなると、任務の合間の平穏なひとときは突然に終わってしまう。何処で何をしていても、スピーカを見上げて聞き耳を立てる。再び真剣になるべきときなのだ。
  「以下の乗組員は13時00分の作戦指令会議に出頭せよ。第2班、機長ローレス。第3班、機長マンガー。第5班、機長ハンドワーカー」
  我々は、我が隊の番号が近づいてくるのを待つ。
  「第11班、機長ヒース」
  最初に我々が思うこと、それは何処へ行くのか?ということだ。東京?名古屋間は恐れられていた。その他の都市や目標は、まだ楽である。作戦の説明が行われるテントに入ると、我々の目は地図の上を辿る。何本かの赤い線が、小都市や四国や九州の方に斜めに延びていると、ほっと安心した思いに誘われ、仲間うちで冗談のひとつふたつ交わすことになる。北へ向けて本州に伸びていると、ただ黙ってしまう。
  作戦指令会議に先立ち、我々は搭乗機を訪れて燃料補給と武器装填を手伝う。小型のトラクタが、250ポンド弾、500ポンド弾、1000ポンド弾など、各種の爆弾を積載した貨車を引っ張ってきて、機体の真下に止める。武器係がウィンチで爆弾を引き揚げ、投下ベイの格納棚に装着して収める。
  銃撃手は、弾丸ベルトを地上に押し広げて、欠陥がないかをチェックする。機銃一挺あたり1200発の長いベルトだ。後尾機銃座の近くで、私は自分のベルトを金属函に格納した。狭い場所で、金属函に弾丸ベルトを交互に層を作って格納し、機関銃に弾丸を送り込んでいく回転式弾倉に装着する作業は、なかなかに骨が折れる暑苦しい作業だ。
  この仕事が終わると、私は搭乗機の最後尾へ行き、銃座に掛かっている高いスタンドを登る。そして銃座のカバーを押しのけ、機銃二挺のフタを持ち上げ、回転シュートに沿って弾丸を引き上げ装填する。
  ドライバーを使って発射チェンバーに弾丸ベルトを押し込み、これで機銃への弾込めが済んで射撃準備完了となる。手伝いの装填係がいなくなるのは、このときだ。弾込めの際、最初の一発は暴発するかもしれないので、このときに限って装填係は他の仕事を探すのである。
  「おい、どこへ行く?」
  悪気はないが、こう言ったものだ。でも、装填係は無視してしまう。
  「情けない臆病者めが」
  私は内心、そう思った。戦争の間、装填係はずっと地上勤務で身は安全なのだ。それでも、こんなたわいもない危険さえ犯すことができない。こういう弱虫ぶりについて、内心で歯噛みするのは、愉快なことでもあった。
  爆撃機の出動体制が整い、まだ離陸まで数時間を残すころ、先に何が待ち構えているのか、よく私は自問自答した。陽が沈むのはたくさん見ているが、次の日に陽が沈む頃、私はどこにいるのだろうか。基地に無事に戻っているだろうか。日本軍の捕虜収容所にいるのだろうか。負傷しているか、死んでいるのか。海の上に漂っているのか。
  今、この瞬間に日本のどこかにある弾丸か金属片は、次の日には私の体を裂いて入ってくる運命にあるのだろうか。機体が弾にあたって墜落を始めたら、脱出窓まで這って行くのに間に合うだろうか。脱出できたとしても、捕われたらどうなるのだろうか。
  「ドイツの電撃戦で、イギリスの連中が撃ち落したドイツ兵をどうしたか、知っているか」
  ある夜、兵舎のなかでリア・が言った。
  「とっとと縛り首にしちまったんだとさ」
  何ということだ!と思う。穏やかなイギリス人でさえ、そういうことができるなら、血狂いしている日本人は何をするだろうか?
  東京ローズ、このラジオで米国批判を繰り返す日本人は、英語をよく話すアナウンサだが、無防備な一般市民への攻撃を繰り返すB29の乗組員は、いったん捕まったら戦犯として縛り首だと我々に警告をしていた。
  戦後になって聞いたことだが、激昂した日本人らは捕虜になった乗組員の首を刎ねたり、墜落後の死体にさえ殴る蹴るの暴行を加えたという。唯一希望があるとすれば、爆撃目標以外の場所で、警察官か兵士の手で捕虜になることだと聞かされていた。
  私は深夜の寝床で、妄想に耽ることがあった。搭乗機が撃ち落されたら、落下傘で脱出し森のなかに着地する。パラシュートを埋めて、木々のなかに身を隠し、暗くなるのを待つ。それから時間をかけて沿岸へ出て漁村へ忍びこみ、そこで小舟を盗んで沖へ漕ぎ出る。すると友軍の飛行機か潜水艦に発見される。実際の距離や飢え、西洋人の風貌、鼻を利かせて待っているだろう日本犬などの現実に、私は頓着しなかった。全くの自己耽溺だったが、それ以外の運命を考えるよりは、まだましだった。
  家を出るとき、姉のルスが私に小さな聖書をくれた。宗教を信じている家ではなかったが、任務についている間、私はいつもその聖書を、心臓の上に覆いかぶせるようにしていた。いつも同じ祈りの言葉を捧げ、その末尾では、いつも神に感謝した。こうした同じことの繰り返しが、幸運をもたらすように思えたので、この習慣を変えることはしなかった。
  頭の中では、宇宙のどこかに人より強い力があって、私や他の乗組員、敵のパイロットや日本の市民を同時に守ってくれるなどということが、どうにも有りそうにないことは分かっている。しかし、私の心は、何かの神聖な力が介入する、それにすがりきるよう訴えていた。信心に悪いことがあるわけもないし、多分、良い事のほうが多いだろう。

 
■敵愾心

  待機中、恐怖心を表に出す者は誰もいなかった。男のすることではないことに加え、乗員全体の作業効率に差し支えかねないからである。我々は全てを心の内に隠した。目標、任務、日本の都会に落と焼夷弾のトン数、そういう話しはしたが、負傷や戦死のことは全く話さない。この手の話題は、我々がもし捕まったらどうなるか、リアが話したことしか、私は記憶にない。
  「この爆弾が全部落ちると、下でどうなるか考えたことがあるか?」
  ある日、エイブが仲間に問いかけたことがある。
  「ぜ〜んぜん」
  ミエンケが言う。
  「まるっきり考えもしないし、全然、お気の毒とも思わないね。連中が中国と真珠湾でやったことを見ろよ。それから捕虜にした連中にやったこともだ。連中は、自分らが強いうちは何でもやる、ならず者だ。連中が情けなど示したことなどないんだ。だから、連中にも情けはいらんね。簡単なことさ」
  我々は賛同し、うなずいた。“アメリカで最後の純真無垢な世代”は、こうして暴虐さに寛容になった。これが2年間の軍役中、私のなかで最も変化した事柄だろう。

 
■近づく本土上陸作戦

  ミエンケ中尉がしばしば機体後尾に訪れる、そのうちのあるときのこと、まもなく始まる米陸軍と海兵隊による日本本土上陸作戦について彼は触れた。
  「間違いない。きっとある。これは容易ではないぞ。秋に上陸作戦が始まっても、おかしくはないな。ひでえクソになるぜ。日本人は洗いざらい全部、俺たちにぶちまけてきよるぞ」

 
■戦争の終局へ

  ヨーロッパ戦線の終結で、米国の軍事力は日増しに太平洋に移され、B29部隊の戦線に投入されていた。29s、A‐26s、P‐51などの戦闘機、沖縄に基地を持つB24、空母部隊の艦載機などであり、ほとんど何の邪魔もされず、事実上、動くものには全て射撃を加えていた。
  ニューヨークのタイムズ紙は書いている。
  「連中が望んだことだ。遠慮なく食らえ」
  真珠湾のだまし討ち、日本兵の占領地での暴虐行為を思い、我々に後悔の念はなかった。それに地上での戦闘部隊と比べ、空の上にあって、我々がずっと下で起こしている苦しみに心を動かされることは、余りなかったのである。正体不明のまま大破壊に従事していたのだ。対空砲火が周囲で炸裂したり、敵の戦闘機が襲ってくるときを除けば、航空戦には一種の浮世離れした静けさがあるといえる。

 

 
   
ヒース機長率いるAndy Doty氏の搭乗機は6月7日に大阪空襲に赴き、曇天のなかをひとしきりレーダー爆撃する。しかし、その帰途、グァム島の北45マイルの位置で燃料切れのため海上に墜落してしまう。乗員はいち早く落下傘で脱出したが、G・ウォーカー副機長、爆撃手D・ハチソンはゴムボートを開けることができず、おりからの高波に溺死、病気で作戦不参加のレーダ観測員H.ケステンバウムの交代要員R・オブライアンは水泳ができないとして爆撃機と共に海中に没した。

Andy Doty氏ほかの乗員は、しばらく洋上を漂ったのち、捜索に向かっていた米軍の徴用船によって発見・救助された。その後、乗員は終戦まで数回、日本への空襲に参加している。

兵役中もエレノア嬢と文通を続けていた同氏は、戦後にエレノアと結婚、夫妻は70才台となった今も、カリフォルニアで幸せに暮らしている。著作のきっかけは、スーザン、アン、ナンシーの娘さんたちから、大戦中の経験談をせがまれることが多かったことによるという。

過去の悲劇を繰り返さないために、自身の体験談を子孫に語り継ぎたいという思いでページの管理者と完全に意見が一致、電子メールでの交際を続けている。

管理者&翻訳・萩野谷敏明