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Tall Tree Press of Palo Alto, 1995
ISBN 0-9646253-0-X |
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"Backwards into Battle" 後尾機銃手Andy Dotyの記録 以下に紹介する記事は、Andy
Doty氏のご好意により、左の著書の一部を抜粋し翻訳・掲載させて頂くものです。
注意事項:
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Andy Dotyは1925年10月12日、ニューヨーク州Glens Falls市郊外のHudson Fallsという小さな町に、製紙工場の職人を父に持って生まれた。 双子の兄弟Chuck以外は兄1人、姉2人の7人家族である。4千万人が失業している大不況期に幼年時代を過ごし、家は豊かとは言えなかったが、ロール捲きたて機を扱う父の週18ドルの収入と、裁縫の内職を家計の足しする母の労働により、一家は互いに支えあって暮らしていた。その頃のアメリカは、現在のように個人主義が中心の世の中ではなく、政府・組織・年長者などの権威が大きな力を持ち、若人は質実で純朴、大人から言われたことに従順であった。若者に覚醒剤がはやり、学校にナイフや拳銃を持ってくる子供がいる、今のアメリカ社会の姿からは想像もつかない。 氏が自ら呼ぶ、"アメリカで最後の純真無垢な世代"の青年たちは、その頃、家のドアにまで忍び寄る戦争の足音を耳にしていた。
真珠湾攻撃によって米国の参戦意志が明らかになると、兵役についていない青年は街中で老人に呼びとめられ、「何をしているのか」とどやされたという。双子の兄弟は、兵役年齢である18歳を迎える1943年10月までに戦争は終わると期待していたが、あてが外れた。そしてDoty氏に"赤紙"が届く。それは恋人エレノア嬢との別れを意味した。
彼は機銃手となるべく訓練を受けた。使用する銃は50口径ブロウニングM2機関銃。目隠しをしていても分解、組み立てができるまで機銃に親しむ。訓練を受けながら、敵の枢軸国の青年たちも自分と同じように集められ、訓練を受け、いずれ戦場で出会うことになるのだろうと思ったという。
グァム島に配属されたのは1945年3月14日、東京大空襲から4日後である。既に本土空襲は最盛期を迎えつつあった。第20軍第314航空団第19爆撃大隊に配属され、3月30日の名古屋爆撃から6月7日の大阪空襲まで、尾翼にMの文字をつけたB29の後尾機銃手として、たびたび日本本土に飛来する。初陣は3月30日の名古屋空襲であった。
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後列左から
機長Talmadge Heath 操縦士Charles Mienke 副操縦士George Walker 航路士Paul Klenk 爆撃手Donald Hutchison 前列左から
レーダ観測員 (写真にいない) |

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ある南日本の目標点に進むうち、私は平和な日本の村々を見下ろしていたことを覚えている。中西部での練習飛行の際、この空の下で暮らす農場の人々のことを思い描いたように、日本の農村で暮らす人々の息子たちが、今どこで、どのようにして、天皇の戦争に仕えているのかが気になった。 |
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ミエンケ中尉がしばしば機体後尾に訪れる、そのうちのあるときのこと、まもなく始まる米陸軍と海兵隊による日本本土上陸作戦について彼は触れた。 「間違いない。きっとある。これは容易ではないぞ。秋に上陸作戦が始まっても、おかしくはないな。ひでえクソになるぜ。日本人は洗いざらい全部、俺たちにぶちまけてきよるぞ」 |

ヒース機長率いるAndy Doty氏の搭乗機は6月7日に大阪空襲に赴き、曇天のなかをひとしきりレーダー爆撃する。しかし、その帰途、グァム島の北45マイルの位置で燃料切れのため海上に墜落してしまう。乗員はいち早く落下傘で脱出したが、G・ウォーカー副機長、爆撃手D・ハチソンはゴムボートを開けることができず、おりからの高波に溺死、病気で作戦不参加のレーダ観測員H.ケステンバウムの交代要員R・オブライアンは水泳ができないとして爆撃機と共に海中に没した。Andy Doty氏ほかの乗員は、しばらく洋上を漂ったのち、捜索に向かっていた米軍の徴用船によって発見・救助された。その後、乗員は終戦まで数回、日本への空襲に参加している。
兵役中もエレノア嬢と文通を続けていた同氏は、戦後にエレノアと結婚、夫妻は70才台となった今も、カリフォルニアで幸せに暮らしている。著作のきっかけは、スーザン、アン、ナンシーの娘さんたちから、大戦中の経験談をせがまれることが多かったことによるという。
過去の悲劇を繰り返さないために、自身の体験談を子孫に語り継ぎたいという思いでページの管理者と完全に意見が一致、電子メールでの交際を続けている。
管理者&翻訳・萩野谷敏明